PHILOSOPHY

教会建築についての考え

大岡山建築設計研究所の理念

事務所の標語聖句主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。詩編 127:1(新共同訳)

光と祈りをかたちにする

大岡山建築設計研究所は、約40年にわたり、キリスト教の建築を中心に設計に携わってきました。クリスチャンとしての信仰を原点に、一つひとつの教会が大切にしてきた祈りと歩みを受けとめ、皆さまと共に主の御言葉を聞きながら、この聖句を心に建築をつくることを大切にしています。

  1. 01

    光に導かれる、祈りの空間

    礼拝堂に差し込む光は、空間を照らすとともに、人の心に静かに語りかけます。小さな灯りがもたらす温もりや安心、静けさの中に感じる神の臨在。そのような光のあり方を見つめ、御言葉と賛美と祈りが心に深く届く礼拝空間を目指します。

  2. 02

    一人ひとりの思いを、共にかたちにする

    教会建築は、皆さまの祈りと献げものによって育まれるものです。一人ひとりの声に耳を傾け、教会の歴史、その土地の風土、地域とのつながりを読み解きながら、設計を進めます。図面や模型やCGを通して対話と検討を重ね、使いやすさと祈りの場にふさわしい空間の豊かさを丁寧に整えていきます。

  3. 03

    地域に開かれ、時と共に歩む教会

    私たちは、礼拝の場を大切にしながら、地域の人々にも親しまれ、主の御言葉を形にできる教会のあり方を考えます。そこに願うのは、建物と共に、信仰が地域へと開かれていくことです。世代を超えて安心して集えるよう、建物の安全性や維持管理、建設費にも誠実に向き合い、長く受け継がれる建築を目指します。

教会の皆さまの祈りの輪に、建築の仕事を通して加わること。
それが、私たちの設計の原点です。

続いて、設計の土台にある考え方を、田淵諭の著書『光と祈りの礼拝堂』の序章「教会私論」から紹介します。教会堂の建築を考え始めた教会の皆さまに、まず読んでいただきたい文章です。

  1. 01教会設計を始めるにあたって
  2. 02礼拝堂空間と光
  3. 03教会建築について
田園調布教会の礼拝堂

01

教会設計を始めるにあたって

教会堂を建築するということは、教会員の皆さんにとってとても大変なことです。どの教会の誰でもが体験できることではありません。けれど、これは「神様からいただく大きな恵み」を受けること、「チャンスに恵まれたのだ」と思われるのが良いと思います。

教会堂を建築することは、設計者がイメージを持って一方的にデザインを進めるのではなく、教会員一人ひとりの祈りを合わせて設計者と共に設計に加わっていくことに大きな意味があります。私自身もキリスト教の信仰者なので、御言葉を聞きながら設計をすることがひとつの証しであると考えています。設計は神様からいただいた恵みであり、また神様から委ねられた使命でもあると考えています。

私は皆さんの教会の設計スタートから完成までの間、皆さんと考え方や時間を共有できることを嬉しく思います。

最初に皆さんの前でこうしてお話しをするのは初めてなので、私と教会建築との出会いについて少しお話しをしておこうと思います。

私の祖母もクリスチャンでした。開拓伝道で発足した小さな教会のメンバーでした。私の母もクリスチャンで、私は物心がつく前から毎週礼拝に連れられて出席していました。

礼拝を守っていたというよりは、聖餐(式)のパンが興味深く不思議で、自分もパンを食べたいと母や祖母をたびたび困らせたそうです。

その後、その教会付属の幼稚園に入園しました。幼稚園に入ってから小学校低学年までは、毎週教会や日曜学校に行っていました。その後、日曜は友達との遊びに忙しく、中学高校では部活に明け暮れました。特に高校生の時は、日曜はサッカー部の試合や遠征があり、教会からは離れていました。

建築の仕事は事務所の中で一日中設計や打ち合わせをすることが多いのですが、私は運動に明け暮れた体育会系体質でもあるので、教会の工事現場で建設会社や職人さんと打ち合わせをしながら造り上げていく現場の臨場感が好きです。

大学を卒業してからは、設計事務所に10年近く勤めました。当時はとても仕事が忙しく、残業や休日出勤が当たり前でした。やがて独立し、設計事務所を始めました。設計事務所の代表になってみると、自分で全てを決めることになり、責任の大きさと先の見えない不安を覚えるようになりました。そんな日々の中、自然に小さい頃通っていた教会の礼拝に出席したいという考えが浮かびました。

久しぶりの礼拝は少々恥ずかしいような落ち着かない気持ちでしたが、教会の皆さんからの温かい歓迎は想定外の出来事でした。まるで聖書の放蕩息子のたとえのように、長年不在にしていた私を1週間ぶりに来たかのように心から迎え入れてくれました。この時のことは今でも心に鮮明に残っています。

その後、自分の出身の教会堂と幼稚園の設計を依頼されることになりました。教会堂を設計できることの喜びと、併せて教会建築について何も知らないことの恐れなど、いろいろな思いが頭の中を駆け巡りました。当時は結構プレッシャーがあったことを覚えています。工事が無事終わり引き渡しの時を迎えると、教会の皆さんがとても喜んでくださいました。この時の嬉しさとともに教会を設計することは素晴らしいことだという思いが強くなっていきました。この貴重な体験や教会員の励ましが私の背中を押してくれました。そしてこの仕事が続けられたらよいと思うようになり、おかげさまで、いろいろな機会を多くの教会の皆さんからいただき、教会建築を専門とする設計者として現在まで来ています。

さて、これからは教会堂建築設計の具体的な進め方についてお話しをしようと思います。教会堂建築をすることは、まず教会の皆さんの心の中に、一人ひとりが教会とは何かを思い描くことから始まると思います。そして共に祈り、語り合うことで、この一人ひとりの教会に対する思いや考えが、まとまったその教会独自の教会観になると考えています。

教会を建てるというひとつの行為の中には、主の御言葉が込められていると思います。

教会を建てようとする時、希望や要望がたくさんあると思いますが、まず最初に

  • どんな礼拝を守るのか
  • どんな祈りをするのか
  • どんな伝道をしていくのか
  • どんな学びをしていくのか

といった、祈りや信仰や伝道そのものの考え方を具体化していくことが大切だと思います。

考えや話し合いを進めるにあたっては、牧師や建築委員会のリードの下、一歩先を示したり、皆さんの考え方がまとまるように一歩後ろに戻ったりと、この行きつ戻りつしながら教会員皆で共有感を持って設計を進めていくことが必要だと思います。

また、教会堂のプラン(設計案)を作った段階でも、これで教会は良いのだろうかと、「教会堂(ボックス)としては良いが教会(チャーチ)として良いか」をチェックしていくことがとても重要だと考えています。私は設計では、「 平面(プラン)には理性が宿り、空間(断面や三次元)には感性と祈りが宿る」と考えています。

実際、教会建築は長い時間を要し、皆さんの多額の献金を役立てて、教会というものに変えていくわけです。一人ひとりの意見を尊重し、一人ひとりの熱意や祈りを共に重ね合わせた上に、その教会の歴史やその土地の歴史、その地域の交わり、光や風といった場所の読み込みが必要となっていきます。私はこれらを設計者の立場で空間に翻訳し、教会員と祈りを併せて、皆さんの教会を設計していきたいといつも考えています。

随分前になりますが、フランスのプロヴァンス地方で光の美しい修道院を見ました。フランスのロマネスク時代の建築で、シトー派のル・トロネ修道院です。造られた当時の修道院は、だいたい13人ぐらい修道士が集まると、暖簾分けのように新しい地を開拓し修道院を建て、別れ移っていきました。修道院は寒いので、修道士の平均年齢は、だいたい30歳であったといわれています。この修道院を訪れて、静寂の中に聖なる光の美しさと神々しさを感じました。

キリスト教は、光をいろいろな面から語っている宗教でもあります。それは御言葉にもある通り、心を照らす光でもあり、希望の光でもあり、主を指し示す光でもあります。一方建築的には、祈りの空間に聖なる光と静かな陰翳を整えて、御言葉と賛美と祈りを、より高みや深みに導くものとしての「光」があります。

教会建築では賛美が光と共に心に沁み渡り、説教が会衆者の心に沁み込むような聖なる礼拝空間を皆さんと一緒につくり出せないかと思っています。また一方で、教会活動の目標でもある「地域に開かれた教会」についても考えていきたいと思います。ここで言う「開かれた」とは、単に建物が開かれているだけではなく、信仰が開かれることを表せたらと思っています。

以上のことを皆さんと共に一つひとつ丁寧に検討しながらつくっていきたいと思います。そうしてできた教会は、教会員のみならず地域の人たちにも喜ばれる教会となるに違いありません。教会建築はまさしく皆さんの教会の信仰告白でもあります。

皆さんの祈りの輪に、教会建築の仕事で加わることができたら幸いです。

2018年9月大井バプテスト教会で行われた講演会の内容を基に一部書き改めました。

02

礼拝堂空間と光

光の子となる

光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。 ヨハネによる福音書 12:36(新共同訳)

日本では今、戦後建てられた多くの教会堂が老朽化し、耐震面での不安も重なり建て替えの必要性が生じています。一方、高齢社会を迎え若者の宗教離れも重なり教会員は減少傾向の中にありますので、教会堂を建て替えることは決して容易なことではありません。後に続く人々に負担をかけることのないような教会堂、そして思いを引き継いでいくことのできる教会堂を懸命に造ろうとしている教会に役立てることを願い、私は設計を続けています。

自分に課した「光」のテーマは、奥が深くまだまだ掴みきれません。今回はしっかり掴んだかなと思ってもスルッと抜けてしまいます。これは実際の光を手で掴めないことにも似ています。けれど、これからも光にこだわりながら、礼拝堂に入った時に、神からのメッセージが光を通して伝わるような礼拝堂を造っていきたいと願っています。

五感と聖霊

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 使徒言行録 1:8(新共同訳)

礼拝においては、五感全てが働いています。礼拝堂ではまず、視覚によって聖なる空間を感じます。次に聴覚によって説教を心に受け、心の内面を照らします。また、聖餐の際には、パンを手にし触覚を働かせると同時に味覚を働かせることになります。聖書の重み、椅子の感触も体感します。もうひとつの嗅覚はどうでしょう。集う人々の温かな気配、礼拝堂の木の香りなどを無意識のうちに感じるのではないでしょうか。更に、礼拝においては、聖霊というもうひとつ別の感覚が与えられます。この感覚を支える役目のひとつが光です。物理的な光を、聖なる光へ転換させることによって、聖霊に満たされた礼拝堂が造られます。

これらの感覚を研ぎ澄ますためには、礼拝堂内で周囲を包むもの、置かれたものが主張しなくなることが必要です。その時初めて、礼拝空間の中に聖霊が満たされるのではないかと考えます。

聖壇と光

御前には栄光と輝きがあり、聖所には力と光輝がある。 詩編 96:6(新共同訳)

聖壇(祭壇)周りには特に光の配慮が大切です。聖壇全体がしっかりとした存在感を持つよう設えることが必要だと思います。特に聖壇の説教卓、聖餐卓、洗礼盤の3つにはそれぞれの役目に合った光を当てることが重要です。

牧師が神の言葉として説教を語る時、その牧師や礼拝堂空間を聖霊で満たすような気配を果たしてつくれるのでしょうか。教会堂建築の設計に与えられた使命でもあるそのような空間。そんなことを考える時にひとつのヒントとなる教会堂があります。アメリカにあるマサチューセッツ工科大学のチャペルです。円形の礼拝堂に足を踏み入れると、聖壇の上部から光が舞い降りてくるように感じます。上部に設けられたトップライトからは、薄く小さい金属片が吊り下げられています。その金属片に、流れる雲に遮られかげる日の光や、太陽の位置で輝きを増す光が当たり、きらきらと動いているように見えるのです。光の粒子が上下する様は、「ヤコブの階段」を連想させます。この他に礼拝堂内部の壁に窓はなく、床に切られたスリットから外に巡らされた堀の水面に揺らぐ光がわずかに壁面を照らすのみでした。

牧師が御言葉を語る時には、御言葉と天とが繋がり神の臨在を感じるような光、会衆一同が聖餐に預かる時には、主の食卓のパンと葡萄酒を囲みイエスの御言葉が皆の心を照らすような礼拝空間をつくることができたらなんと素晴らしいことでしょう。実際に設計する時には、聖壇周りにどのような光を落とすかということに細心の注意を払っています。明るすぎることのない、けれども礼拝堂に入った時聖壇周りを意識できる光を、壁面の光とのバランスを考慮しながら計画しています。

窓・開口部・照明

わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。 マラキ書 3:10(新共同訳)

建築の歴史において、空間は2つの異なる方法で築かれてきました。ひとつは柱を立てて屋根を支える方法。もうひとつは壁に囲われた空間にドームやヴォールト(かまぼこ型)で屋根を載せる方法です。この後者の方法によってつくられた空間において、窓は壁に穿たれるものでした。この穿つという行為は大変原始的な行為でもありますが、光を希求する感覚を伴う神聖な行為でもありました。

初期キリスト教の教会において(教会堂だけでなく建物全般として)、窓は採光や換気をするものとして用いられていました。やがて、これら物理的機能だけでなく、宗教的に神の臨在を感じる精神性を象徴するものとして、また天の神に近づこうとする宗教的願望を満たすものとして、窓は発達を遂げていきました。構造の発達により、天に届けとばかそびりに聳えるようになった教会堂の礼拝空間では、縦長の窓が主流になりました。人々は窓が高い位置にあればあるほど、天上から射す光には神々しさ、神の力といったものを感じるようになりました。高く小さな穴から射し込む光には、その光を突き抜けた遥かみくに彼方には天上の御国があることを思い描かせる効果がありました。また、窓からの光を直接採り込むだけではなく、一度壁面にバウンドさせて礼拝堂内に採り込む方法によって、礼拝空間に浮遊感を与えることもなされてきました。

礼拝堂内において必要なものは、ある時は神の威厳や啓示であり、ある時は主を賛美し主の栄光を顕すことであり、ある時は主の祝福が空間や心に降り注ぐことです。そのいずれにも呼応できる空間をつくりたいものです。礼拝堂に光を採り入れるものには窓の他に、ステンドグラス、カーテンウォール、穴、トップライト等が挙げられます。これらは大きさ、数、位置、形状、直接・間接等の違いによって礼拝堂空間の雰囲気に大きな違いを生み出します。

礼拝堂において、照明器具の存在も大きなものです。礼拝堂空間の中に照明器具を吊り下げるか、壁や天井付けとして礼拝堂空間をすっきりさせるかによって、礼拝堂空間の印象は大きく変わります。

日中開口部から入る光の印象と、夜の印象をあまり変えたくないと考える場合、天井照明を用い吊り下げることによって礼拝堂空間をより立体的に見せることがあります。

礼拝堂の大空間を照明する場合は、全体を照らす照明(地あかり)、あるエリアを照らす照明(ピックアップ)、ある対象物を照らす照明(スポットライト)、壁を照らす照明(ウォールウォッシャー)、光源を見せずに部分を照らす照明(間接照明)に大別されます。

時と光

光が放たれるのはどの方向か。東風が地上に送られる道はどこか。 ヨブ記 38:24(新共同訳)

礼拝の時、主との応答によって私たちの心の中が御言葉によって照らし出され少しずつ変わっていくように、礼拝空間に時の流れ、変化する光の違いを採り込みたいと思っています。

礼拝のはじめには、この礼拝に主が私たちを招いてくれたことを祝福する光を感じたいものです。礼拝の中で御言葉が語られる時には、光の粒子が会衆一同にそれらを届ける役目を担うような光であってほしいと思います。また、主への賛美が高らかに歌われる時は、歌声と共に光が天から会衆の元に舞い降りてきてほしいと思います。

そして、会衆が礼拝堂を後にする時には、御言葉と共に光が、一同の背中を優しく押してくれるような礼拝堂であってほしいと思います。

では、それはどのような礼拝堂でしょう。建築を志す者、生業とする者たちの中で光について語られる時、必ずと言っていいほど例に挙げられる建築に、プロヴァンス地方にあるル・トロネ修道院があります。贅を極め、ロマネスク彫刻の宝庫といわれたクリュニー派の修道院に、異を唱えてつくられたシトー派の修道院です。聖ベルナールによる厳しい戒律や規則によって、修道院までもが自分たちの手で築かれました。削り出したままの粗い石をそのまま積み上げ、床も壁も天井も同じ石を使い、一切の装飾を排した空間は、神への祈りのみを求める空間となっています。低く抑えられた開口部から聖堂内に入ると、そこには神聖な光が射しています。この聖堂の朝日を受ける祭壇背後には限りなく淡い黄色のステンドグラスが、昼近くの光を受ける壁面には限りなく薄いピンクのステンドグラスが、午後から夕暮れの光を受ける壁面には透明に近い水色のステンドグラスが用いられています。それらは、少々形を違えた抽象的な桟によってステンドグラスの用をなしているだけのようにも感じられますし、ガラスの色が違うことすらよほど注意して見ないと気づかないかもしれません。しかし、このほんのわずかな色の違いが光を通した時の隠し味となって、時間と共に微妙に変化する礼拝空間をつくっています。開口部のつくり方、光の量と質、それらを含めた古い修道院の祈りの空間全体が多くのことを教えてくれます。

礼拝堂と光

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 ヨハネによる福音書 1:9(新共同訳)

教会堂を設計するということは、煎じ詰めれば礼拝堂を設計するということです。礼拝堂を設計するにあたって大切にしていること、それはその教会の信仰告白が現された礼拝空間をつくることです。主への賛美が満ち溢れた礼拝空間をつくること。聖礼典が整えられる礼拝空間をつくること。そして、光の満ちた礼拝堂をつくること。礼拝堂にどのような光を採り込み、この光に神の臨在が重ね合わされることが望まれると考えています。

さて、私たちキリスト者は聖日の礼拝において、光と時間の流れをどのように感じているでしょうか。礼拝の始まる午前10時頃から礼拝の終わる12時頃まで、時間の経過と共に太陽の光は礼拝堂の周りを回り、刻々とその質を変えていきます。その日、新しく朝日として生まれた太陽の日射しは、昼近く瑞々しい若者へと成長していきます。牧師の口を通してこの世の光である主イエスが御言葉を語りかけ、会衆の心の中を主の御言葉で満たします。時として日向のように優しい光で、時として胸に衝撃を与える閃光となって。

プロテスタントの礼拝堂であるなら、聖書を読める明るさを確保しなければなりません。これは基本的なことですが、それだけでなく、外部からの光をどう採り入れるか、どういう質の光をつくるのか、またそれが神学的にどのような意味を持った光なのかを追求することが必要となります。これらを総合して、聖なる空間をつくることが設計者に求められることだと考えます。光と共に降り注ぐ御言葉。その御言葉をしっかりと受け止めることのできる礼拝空間をつくりたいと思っています。

礼拝堂の方位を掴み、その地域の太陽の動きを知り、開口部を考え、礼拝堂の入り口からこれらの光がどのように見えるかを予測することは必要不可欠ですが、礼拝堂に一歩足を踏み入れた時、その空間に聖なるものを感じられることがとても大切です。

旅で得た光

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 ヨハネによる福音書 1:9(新共同訳)

2000年、私は、イスラエル・ヨルダン・シリア・トルコ・ギリシャ・エジプトを巡る2カ月余のひとり旅の機会を得ました。これはキリスト教の歴史の一端に触れる旅でもあり、パウロの伝道のほんの一部を追体験する旅ともなりました。それまでキリスト教の知識は、教会や聖書や書物、欧米への旅行、絵画や映画に基づくものでしたが、中東、地中海沿岸への旅によって、それらとは違うものを得ることができました。

その中でも、砂漠の民ベドウィンの一族から山羊の毛で作ったテントに招かれ、お茶をごちそうになり、しばし語らいの仲間に加えてもらったことは貴重な体験でした。

その訪問を終え、宿へ向かう岩山の道を歩いていた時、一人のベドウィンの老人が小さな石でできたランプに灯りを点そうとしているところを見かけました。辺りは砂漠と山岳とが入り交じる土漠と呼ばれる地帯で、岩山は夕日で赤く染まり始めていました。その老人は岩陰で静かに準備をしていました。夕闇の迫る景色と、ランプのかすかな光に照らされた皺々の老人の顔に、この厳しい気候風土の中で強く生きてきた老人の人生そのものが映し出されている気がしました。

それにしても、この素朴で小さな石のランプの何という温かな光。何という神聖な光。

老人の周囲に漂う気配に、イエスの生きた時代、それ以前の、旧約聖書の中に出てくる静寂の世界はこのようなものだったのだろうかと想像を膨らませました。死と隣り合わせの過酷な地に生きるベドウィンの人々と小さな灯り。闇がどこかに行ってしまった現代の都会生活において、このような素朴でありながら神々しい光、小さいけれどどこまでも温かく、共にいることの安心感のある光を感じることはありませんでした。

この旅で出会った人々、空間体験は、私の心に大きな光を投げかけてくれました。

主と共に建てる

主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。 詩編 127:1(新共同訳)

教会堂建築を始めると、設計者も教会員も各々立場の違いこそあれ、日常の教会生活での物理的不備や長年抱いてきた理想の形を求めてたくさんの要望を耳にします。例えば、木の香りのする礼拝堂が欲しい。屋根の形は現在の教会堂と同じ切り妻がいい。

今度はぜひ鐘楼が欲しい等々。

しかし、教会堂建築は私たちの要望を満たすことを優先させるのではなく、人々が共に祈り、共に神を賛美する空間の実現であり、神と私たちの間で交される恵みの受け皿として教会堂を建てるべきであると考えます。教会のビジョンを皆で確認し、神に祈り、御言葉を聞くことをもって教会堂建築のスタートとすることが望ましいのではないでしょうか。教会堂建築を行う人々は、神からの最高の恵みを具現化できるチャンスに恵まれたと考え、積極的に、喜びをもって関わりたいものです。

教会堂設計の原点

民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 使徒言行録 10:42(新共同訳)

設計の仕事について10年ほどが経過した頃、私の所属教会の礼拝堂改築と幼稚園の建て替え計画がありました。その幼稚園の卒園生でもあった私は、設計する幸運に恵まれました。設計できる喜びと、教会員や幼稚園の皆さんの期待に応えられるだろうかという不安と、完成した時皆さんに喜んでいただけたことを今も鮮明に覚えています。これが私の教会堂建築のスタートであり、この設計を通して多くのことを学ぶことができました。そして、学ばねばならない多くのことがあることを気づかせてもらったことが、何物にも代え難い財産となりました。

現在、教会堂設計を続けていられるのも、この最初の礼拝堂設計が原点となっています。所属する教会の礼拝に出席すると、その時体験した張り詰めた感覚が蘇ってきます。ここは、計画に悩む時、今でも力を与えてくれる場所になっています。

03

教会建築について

設計者の役割

わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 コリントの信徒への手紙一 3:10(新共同訳)

教会の設計は単に機能が満たされたBOXを作るのではなく、教会を創ることが求められます。言ってみればhouseを造るのではなく、 homeをつくることが必要です。教会からの要望は、礼拝堂の神学的なことから、キッチンの使い勝手など具体的なことまで多岐にわたります。祈りや信仰を土台にした打ち合わせを通して、お互いを理解し信頼関係を築くことが大切です。従って、初期の段階から設計者を選び、教会との打ち合わせに参加してもらうことが良いと考えています。

設計者にそれぞれの教会の礼拝を体験してもらい、特徴や各行事を知ってもらうことで想像力もいっそう広がります。

教会のアプローチ

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。 ヨハネによる福音書 10:9(新共同訳)

教会の入り口は、教会員だけでなく求道者や教会を訪ねる者にとっても入りやすいものでありたいと考えています。

そして教会の入り口に向かうアプローチでは、門がなくともここは聖なる空間であるという違いを感じられたら良いと思います。それは、ちょっと居ずまいを正すようなもので良いと思います。

日本には結界(聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限る)という言葉があります。例えば神社の鳥居が結界を表し、鳥居の内側と外側という空間の違いだけでなく、境内と外の空間とでは意味も意識も変わるという精神的なものを表しています。教会においても、このようなアプローチをつくりたいと考えています。

教会の玄関

イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。 ヨハネによる福音書 4:6(新共同訳)

入り口(玄関)はできるだけ、道路から見える位置に設けるように心掛けています。これは来る人を拒まず、何人も招き入れるキリストの教えの具体化でもあります。敷地に斜面がある場合は、高齢者や車椅子に無理のない勾配が求められます。

また、教会入り口の前には空間を取り、敷地にゆとりがある時は聖書の植物を植えた庭やベンチなどを置くことで、キリストとの出会いを感じさせることもできます。

教会は葬儀も行われるので、霊柩車の取り付きや待機の配慮も必要です。

駐車場や駐輪場が近くにある場合は、礼拝堂に向かう歩行者と車との動線の交差もできる限り安全を心掛けたいものです。

聖壇家具

洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 ガラテヤの信徒への手紙 3:27(新共同訳)

聖壇家具の主なものとしては、聖餐卓・説教卓・洗礼盤(洗礼槽)があります。これらの配置は神学的に意味を持つものなので、各教会の牧師と十分に打ち合わせをして進めています。

説教卓は、礼拝堂の中心軸に設けるか否か。聖餐卓は、聖壇上部に据えるか、会衆席の床に据えるか、聖壇を2段にしてそこに据えるか。洗礼盤は、常設か否か。また、位置は説教卓の隣か、会衆席の側か。

これらは礼拝堂空間を形作る大きな要素なので、検討の初期から各案の模型やプラン(設計図)を提示して礼拝堂を立体的に説明することが大切です。

礼拝堂の架構

わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。 マタイによる福音書 7:24–25(新共同訳)

屋根の形状については、会衆席から聖壇に向かって対称形の切り妻屋根が一般的ですが、私は聖日礼拝の約 1 時間の間に動く太陽と、それによって時間の流れを感じられるよう、南東側を高く片流れ屋根にしたり、天井にトップライトを取ることが多いです。また高くすることによって、天上からの光を礼拝堂に導きやすくなるので効果的です。

そして、これらを検討するには礼拝堂の屋根を支える構造(架構)の検討が欠かせません。それぞれの教会に合わせて、この架構を礼拝空間に現し光の陰翳を意識的につくったり、架構を見せずに光を穏やかなグラデーションとして扱ったりしています。

洗礼

この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。 ペトロの手紙一 3:21(新共同訳)

教会の特徴のひとつに洗礼という儀式があります。この洗礼には、器の水を頭に注ぐ「滴礼」と水槽に全身を浸す「全身礼」があります。

ルターは「日々信仰によって生まれ変わる」と述べました。これを実践するために、洗礼盤を聖壇に常設することで、日々キリストによって生まれ変わることを想起できるのは良いことではないかと思います。

バプテスト教会においては、全身礼を行うことが多いので洗礼槽を設けます。これは礼拝堂設計の重要な要素となります。洗礼槽を床下に設け通常の礼拝時にはフタをする洗礼槽もありますが、教会の大切な聖礼典のひとつなので、洗礼盤が見えるところにあるように洗礼槽を象徴的に見せる設計を心掛けています。

聖壇と十字架

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 マタイによる福音書 16:24(新共同訳)

礼拝堂の設計では、聖壇に十字架を設けるべきか、設けるとしたらどのような大きさや形であるべきかが必ず議論に挙がります。

これは神学的に大きな意味を持っていることなので、設計者は単にデザイン的に格好が良いからとの理由で決めるべきではありません。そこに神学的や聖書的な形の意味を提案できないかといつも考えています。

光の十字架であったり、カルバリの讃美歌のような素朴な木の十字架であったり、設計者には意味をデザインに落とし込むイメージが求められます。

会衆席

園に座っているおとめよ、友は皆、あなたの声に耳を傾けている。わたしにも聞かせておくれ。 雅歌 8:13(新共同訳)

日本の伝統的な教会の会衆席はベンチ型でした。これには詰めても座れて、まばらにも座れるという自由度があります。

また、アメリカの教会で多く見かけるボックス型は、家族がまとまって着席できる利点があります。ただこれらのスタイルは、礼拝堂内の席配置の自由度が少なく重たいことが難点でした。

近年個別椅子の需要が増えてきました。これは、会衆席配置の多様性、高齢者でも移動可能な利便性、更に教会員一人ひとりの座った時の安心感も大きな要素になっていると思います。ただし個別椅子の場合、立ち上がる時に前の席に手をついても安全な重量があるということが注意点です。いずれにしても、会衆席は礼拝空間構成の重要な要素です。

礼拝堂の響きと讃美歌

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 エフェソの信徒への手紙 5:19(新共同訳)

礼拝堂を設計するにあたり、音については残響と響きという2つの要素の検討が大切です。残響は比較的数値化しやすいものですが、響きは数値化しにくいものです。

響きの違いは音色や音質と言うとわかりやすいかもしれません。これは礼拝堂の形状や仕上げ材料の反射率や吸音遮音の周波数特性によっても変化が出てきます。それぞれの礼拝堂は形が違うことが個性のように、音色の違いは礼拝堂の大きな個性となります。

従来、賛美は各自讃美歌を持って歌うものでした。しかし近年の高齢化と共に、プロジェクターで讃美歌を大きくスクリーンに投影して賛美する教会も増えてきました。これらの対応には、聖なる礼拝堂空間を損ねることのない慎重な設計が求められます。

外観

ダビデ王は立ち上がって言った。「わたしの兄弟たち、わたしの民よ、聞け。わたしは主の契約の箱、わたしたちの神の足台を安置する神殿を建てる志を抱き、その建築のために準備を進めてきた。」 歴代誌上 28:2(新共同訳)

教会には決まった外観にしなければいけないというルールはありません。キリスト教が公認された当初は、既存の裁判所や公会堂などの建物が教会として用いられ、これがその後の教会建築の雛形になりました。

西洋では、教会は今も街の中心地に建ち、街のシンボルとして市民に親しまれています。日本の教会は、敷地と庭との関係や門のあり方、近隣との関わり方に、独自のあり方が求められても良いのではないでしょうか。

教会は、信仰や祈りと共に地域性や土地の特性から形が決められ、教会の形自体が街や人々に対して伝道する可能性を秘めていると考えています。教会員のニーズやその教会の歴史、地域の特性等を検討した上で、その敷地にひとつの形を彫刻のように削り出すことが必要だと考えます。それが地域のランドマークとなったら、こんなに嬉しいことはありません。

礼拝堂の方角

光が放たれるのはどの方向か。東風が地上に送られる道はどこか。 ヨブ記 38:24(新共同訳)

西洋の教会はエルサレムのある東の方角に向けて建てられたので、聖壇が東側・入り口が西側の配置で建てられることが多かったようです。

従って、会衆席から聖壇に向かって右手が南側、左手が北側となります。そして南側の光の射す側で旧約聖書と使徒書を読む朗読台が、北側には福音書を読む朗読台が設けられ、やがて説教台に変わっていきました。

現在プロテスタント教会では、敷地の形状や道路の都合もあり、聖壇を置く方角を教会的に東と考えて計画することが多く見られます。

私は礼拝堂の向きについて、教会建築へのアプローチのしやすさや、教会入り口周りの開放感等を考慮し、教会全体の配置を検討しています。そして、礼拝堂に採り込む朝日や、礼拝時間に太陽がどの方角や角度から射すかを調べ、礼拝堂の方角や開口部を決めています。

天井高

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 エフェソの信徒への手紙 5:8(新共同訳)

礼拝堂において天井高の決定は大変重要です。宗教観に基づいた礼拝空間に対する考え方や、光をどう表現するか等によって変わってきます。従って単に高い低いで良し悪しを決めるものではありません。

礼拝空間を神々しい空間として表したり、天上の神の国をイメージしたりすると高くなりますし、主に包み込まれる胎内のような空間をつくると考えると、低い天井になります。また、光をどう扱うかで変わってきます。一般的には身長の3倍の天井高を確保できると、非日常空間として高さ方向に開放感を感じるようになります。また、音響的に理想とする礼拝堂の気積は収容 1人あたり10m³以上といわれていますので、天井高10mほどの教会を設計することが多いです。

礼拝堂は1階か2階か

わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 使徒言行録 20:8(新共同訳)

1階に礼拝堂を設ける場合は、階段やエレベーターを使う必要がないため、バリアフリーの礼拝堂をつくることができます。このことは、誰でも礼拝堂に入りやすいという最大のメリットがあります。そして、礼拝堂の上部に2階を設ける必要がない場合は、天井の高さや形状が自由になるので最善の方法だと考えます。

礼拝堂上部に2階諸室を載せる必要がある場合問題になるのは、礼拝堂という聖なる空間の上に諸室を置くことの是非です。これは敷地が狭い日本の教会に見られる特徴です。この点は設計に大きく左右するので十分議論しておくことが必要です。また、礼拝堂を1階以外に設ける場合は階段とエレベーターの検討が重要です。特に礼拝直前は人が集中するので、このことをしっかり理解して設計を説明する必要があります。

礼拝堂の形

まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。 ヨハネによる福音書 4:23(新共同訳)

礼拝堂の空間と席配置の代表的なものとして、長堂式、横長式、集中式が挙げられます。長堂式は日本の教会の代表的な形でもあります。ローマで始まった原始教会の形状(バシリカ型)が、そのまま様式や伝統として残ったものです。

集中式はギリシャで多く生まれ、墓を使った礼拝空間の名残ともいわれています。また、キリストが車座になって弟子たちと話す最も基本的な語りの形態ともいえます。

ヨーロッパでは宗教改革によって、多くの教会の内部空間が改変されましたが、その時ゴシック教会の長堂式の礼拝空間が横型になった例が幾つかあります。

その後カトリックで集中式や横長の礼拝堂が推奨されたこともあり、プロテスタントでもこの横型や集中式礼拝堂が多くなってきました。席配置によって礼拝堂の形が決定づけられるので、十分検討が必要です。

礼拝堂のHoly Empty

それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。 テサロニケの信徒への手紙一 4:17(新共同訳)

礼拝堂は建築面積の制約から、会衆席を詰め込むことが多いのが現状です。ただ、ある宗教学者が唱えたように、私も聖壇と会衆席の間の空間には豊かで聖なる無の空間(Holy Empty)があると良いと思います。こうすることでここに聖なる空間が神学的にも建築的にも確保することができます。ただ、なかなか確保できないのが現状です。

音響

笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。 コリントの信徒への手紙一 14:7(新共同訳)

礼拝堂は、牧師の説教が明瞭に会衆に伝わることと、会衆の讃美歌が良く響くことが大切です。そしてこの2つは、求められる適正残響が異なります。従って、礼拝堂の音響設計では、この2つの音響特性を満たすことが重要になります。

見た目に美しい礼拝堂も、最初の礼拝を始めたとたんに音響設計がうまくいった礼拝堂かどうかがわかります。

また、礼拝堂空間はそれ自体が、弦楽器本体の共鳴箱と同じ意味を持っています。

建築的にはフラットエコー(音が延々と反射を繰り返すこと)を起こさないように対面の壁を平行にしない工夫や、複数の周波数を吸収する複数の仕上げ材と遮音材の組み合わせ等の技術に裏付けられた設計が必要になります。従って礼拝堂の形の検討段階から、音響設計者と共同で設計を進めることが重要です。

コロナ後の礼拝

主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 ヨハネの黙示録 22:21(新共同訳)

2019年に確認された新型コロナウイルス感染拡大によって、その後の教会の礼拝のあり方は大きく変わりました。

今まで毎週礼拝は対面で守られていましたが、一堂に集まる礼拝を中止し、オンライン配信や印刷物による礼拝等を行うことになりました。このことによってインターネットやパソコンを苦手に思う高齢者に多くのダメージを与えました。一方自宅で礼拝を守れるという気安さも、初めて礼拝に参加する人への門戸を開いた感もありますし、説教がアーカイブ化できるという長所も忘れてはならないと思います。

今後は、対面とオンラインの良いところを活かしつつ進めることも考えられます。また、キリスト教徒の減っている現在、コロナ禍や高齢化による信徒減少などさまざまな危機によって新しい教会設計や礼拝のあり方を見直す良い機会が与えられたと前向きに捉えたいと思います。

出典:田淵諭『光と祈りの礼拝堂』(教文館、2023)序章